ゼロベースの気づき今年、私にとって何がどう最も変化したのか。それは『気づき』に対する捉え方が、これまでとは多分に違ってきたであろうということなのです。 出来るだけ客観的に私という人間を自己評価するならば、少々頑なさも持ちながら、しかしそれは、根底の生き方や信念に根ざすところであって、いたって素直な面を多分に持っていると、自分ではそう思っています。 仕事の日常業務における問題点や障害に直面した場合においては、例えこちらに落ち度ない状況下であったとしても、「どうしてこうなったのか」「どこかに少しでも回避できる要素はあったのでは」・・等と、先ずは自省を心がけています。 うまくいかない理由を対象に求めるのではなく、仮に百歩譲って我に非がないと考えられるような場合でも、しかし結果としてそこに事実としての不十分さが存在するとなれば、それはやはり、例え些細な事であっても、そこに至った過程のどこかに不十分さは潜んでいたわけに違いなく、少しの注意と配慮で未然に防ぐ事もでき、より満足の結果を導き出す事もできたのでは、と、思い至るわけです。 謙虚と素直な自省は、成長の為の気づきを自らに与えるとともに、生かされた経験は、次の困難回避や打開を容易くし自分自身の一層の成長と、他者からの信頼を得ることも可能になるのです。 とかく失敗を他者の所為にしがちなのが人間。 事が起こったときに非を相手に求め、自分自身に対する振り返りができない人ほど、同じ失敗を度々繰り返すものです。 又、人間は、様々な事象や人間関係において、例え謙虚にその自省ができたとしても、至極当然としての多少の自己愛の上に成り立つからには、やはりそこには、どのように繕い言おうと、自己肯定側に振った自分が存在するだろうと思われるのです。 もちろん、自らを愛せなくて他人への情など持つこともできないわけですから、自己愛の部分に対して何ら非難されることはないわけです。 しかし、思うに、その自省する場合の対象が、特に人間関係である場合においては、自己肯定自体の領域が拡大されがちなのではないでしょうか。 どんなに自省しても、どこかにその領域と立ち位置が護持された状態では、どうしても非を相手に求めがちになります。 例えば男女 「私がこれだけ想っているのにどうして分ってくれないの」 例えば利害 「これだけしてあげているのに」「あれだけしたのに」 詰まるところ、被害者意識と身勝手さが度を越した、多々見受けられるケースです。 人は他人(ひと)を、現時点においてではなく、従来の流れのなかの今として観てしまいいがちです。 私とて、過去には失敗も多々あり、未だ日々において前進と後退を繰り返しているような人間なのですが、昨日よりは今日、今日よりは明日へと、より良くへの成長を目指して今を生きているわけです。 過去は過去で、いかに今を誠実に生きようとしているかが大切だと思うのです。 完全とはいかない人間の、しかし、その気になれば何度でも、そして今すぐに、気がついた端からやり直しができることこそ、天から万人平等に与えられた価値ある財産そのものではないでしょうか。 さて、これまで自らの心の障壁となっていた部分が、最近目からうろこ的に解消したような気がしています。 謙虚に素直に自省できる自分を、何はなくとも多々ある人生を生きる上で、明日への希望を持って最も頼れる懐刀、信頼の支えとしてきたつもりの私というもの。 しかしそれが、私自身のいつも変らぬ立ち位置からの、不十分な振り返りに過ぎなかったものであることに気づいたのです。 年初において私が最も価値ある気づきを手に入れたのは、『ゼロベース思考』。 謙虚に自省したつもりが、いつもわずかに自己肯定側に心が振れている。 積み木が完全に崩れていない。 いつも同じ立ち位置で、わずかでも自己肯定を持ったなかでいくら自省しても、真の解決は生まれないということ。 反省したつもり、気づいたつもり・・人間、『つもり』というのはよくあることではないでしょうか。 事象も他人(ひと)も、時に以前との間に一線を引き、今、現実を冷静に見つめることの、限りなくゼロベースでの真の自省。 その事をわずかながら理解できた私は、これまで同様の気づきの精神が幅を広げて、更に多くを気づけるようになったと思えるのです。 これも、日々あれこれありながら、しかし常に前を見ながら希望の明日を信じている賜物かもしれないと、このところのほんのわずかな自己成長にほくそ笑んでいる私です。 |